昭和四十七年九月二日 朝の御理解
X御理解第三十七節「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
生きておる間は修行中じゃと。この世は苦の世だ苦の世界だとさえ言う人があります。ですから苦労というものは、一生、生きておる間は、つきものだと。そういう意味ではないと思うですね。この世は苦の世だ苦の世界だと。成程見方によっては、そうでありますけれども、住んでおる例えば、世の中、しかも生きておる間、段々その周辺は明るうなり、内容は豊かになり、本当に勿体ない有難い、という日々になっていくのがお道の信心。日勝り、月勝り、年勝り、代勝りというように、おかげを受けていくのでございますから、苦労はついてくるはずありません。
けれどもよりおかげを頂かなければならない、より力を受けなければならない。より、いよいよお徳は高めていかなければいけない、というところにです。やはり修行があるのです。だからその為の修行です。それは丁度、学者が年を寄っても眼鏡をかけてでも、そかなに眼が悪いならば、もう本やら読まんがよかろうごたるけれども、やはり眼鏡をかけてでも、本を読むようなものであろうぞいと仰せられる。
それは学問が身についていくという事が、楽しいのである。学者は言うなら、学徳が身についていくのが、有難いのである。私はいつも古川の家に行って感心します事は、もうあんなに、古川先生、よぼよぼしておられますけれども、自分の書斎に入られたら、兎に角暇さえあれば本を読んでおられます、何かずーっと。そして書き物をしておられます。何であんなに勉強しなさんならんだろうかという位ですね。やはり勉強です。難しい本が沢山置いてあります。やっぱり勉強すれば勉強するほどです。そこに得られるもの開けてくるものがある。それが楽しい。
ですからここで金光教の信心で言う、生きておる間は修行中じゃという事は、一生、お金には恵まれなかった人だとか、一生病気がちであったとか、一生あちらのおうちは家庭の中が、思わしくなかった人間関係が、ようなかったというような事で終わるという事では決してない。初めはそうかもしれんけれども、例えばお金でも不自由せんですむようになり、不健康であった人も健康になり、勿論人間関係なんかはもう、実に円満になってくるというようなおかげを頂いて、その上、尚且つ修行させて頂くというのは、いよいよ信心が佳境に入っていく。いよいよお徳とはこんなもんであろうか、と自分の心に感じて、そのお徳がいよいよ本当なものになっていく事の楽しみがおそらくだから、死ぬまで修行はさせてもらわなければ、おられんのである。
昨日一昨日でした。たまたまお参りをして来た方が、北野の方であって、私の元の椛目の、草野町です。それで御主人が私よりも、一年位上だと、小学校の時です。それで学校の沢山の人が、参ったり助かったり、しておるという話を聞いて、先日から野口さんの所におい出られて、それからまあ上りこんで金光様の信心を頂かれた。野口さんも、また自分がおかげを受けた事を、何度も一生懸命話された。それから是非自分もお参りをしたいというので、翌々日参って来たんです。
そして聞いたんですけれども、宮崎さんというのですけれども、小学校の校長さんも永い間勤めておられた。それからこれは私の小学校の時の友達で国武という先生が、やっぱり校長を勤められて、私も定年でやめまして盆栽いじりでもしとりますとか。国武先生も、やめられまして、今、植木屋さんのような事をしておんなさいます。というような話を聞かせて頂いて改めてね。私自身おかげを受けておる事に気がついたんです。
私は今から、これは来年だって今からと言うでしょう。さ来年になっても、まあだ今からいよいよ助からなければ、いよいよ私が助かる事によってまた多くの人が助かっていかなければならない。まあ私は幾つになったら隠居でもさせて頂いてというような思いはさらさらない。これはもう一生が、修行だと、自分で思うとりますが、それは一生御結界に座らんならん、という事が苦しい事だというのじゃなくて、益々有難うなっていくから、そうしなければおられん。段々自分の心が高められてきて、視野が広うなってくる。見る場面が広く見えてくるようになる。それが楽しいのである。あそこまで登ったら、もっと素晴らしい事が見えるだろうという楽しみがある。おそらくそれを生涯、願い思い続ける事だ。
宗教家というものは、素晴らしいと私は思う。もうこれはどんなに例えば、立身出世を致しましても、それは例えば、総理大臣にならせて頂いても、段々年を取っていくならば、言うならばある意味合いではです。もうそれこそ大将の、大臣のと言われておっても、段々それは薄いものになってくるでしょうけれども。宗教家というのは段々有難うなっていくから、年を拾うていくに従って、自身も有難うなってくる。周囲からもやはり尊ばれる、ほどしの信心になっていかなければ嘘です。
これは宗教家だけではありません。お互い金光様の信心頂いと る者が、そうでなからなければいけない。うちのお祖父さんは、うちのお祖母さんは年を取っていかれるに従って、いよいよ大事にしなければおられない、年寄り方を、させて頂くというところに、修行がいるのです。それは自分自身もその修行を苦しい事というのではなくて、高められていくところの喜び、その楽しみがある。若い時には随分苦労もした。金にも難儀をした。または人間関係にも、様々な複雑な、本当に問題があって難儀をしたけれども、そういう世間一般でいう難儀というようなものからは、脱却する。所謂違った世界に住まわして頂けるところのおかげを、頂きたいものである、というのではなくて、頂かなければいけんのである。
金光様の御信心は、障子がきれいに張り替えられておったりしておるのは、実に見事、感じがいいです。ところがね、これが障子でありますとね、これが一カ所破れておったり、それが二カ所破れておったり、それがそのまま放ってあったりするほど、見苦しいものはありません。信心をさせて頂いておるのは、丁度障子のようなものです。あちらはもう永年金光様の信心しござるというのは、障子のような風に皆さんが見てる訳です。もう本当にそうです。信心しよると特にそういう見方をされるです。
だから破れておればです。もうすぐに目立つのです。信心させて頂いておって、一カ所か二カ所破れておるだけで目立つ。そして信心しよって、あげなこつでよかじやろうか、という訳です。信心の無い者は。信心が無いなら何でもない。これは障子だからなのです。障子だから、破れておったら、すぐ目立つのです。だから破れんという事はありませんけれども、破れたならすぐそこに、また張りを当てるというようにしなければならんのですけれども。それが破れっ放しであったらどうでしょう。あの人達は、金光様の信心しよらっしゃるばってんか、もういつもかつも破れどおしという、目立つのです。そんなに金光様の信心頂いておるという事は。
ですからそういうところにもです。私共はいっちょ修行の心というものを、いつも持っとかにやならん。それは、どういう事かと言うと、信心しござるけれども、難儀な事が続くとか、困った事があるというような、事ではないのです。いや寧ろ信心させて頂いておって、その難儀なら難儀という状態はです。松の優れておるというのはね、どんなに雪が降っても、積もっても、かえってそれをひとつの風情にしておるのが松の素晴らしさだと言われる。他の木はもうくしゃーっとなったり、雪で当てられるのですけれども、松はそうではない。いよいよその雪そのものが風情に見えるほどしに、毅然としたものがある。
信心させて頂いておって、どんなに難儀があってもです。信心を頂いて、それを本気で修行として取り組んでおる、姿というものは、寧ろ尊いです。私共修行中の時分に、それはあちらは、一家中で永年信心しござるのに、どうしたあげん貧乏さっしゃれんならんじゃろうか、というほどしの貧乏が続いた。だから笑う人は笑うたかもしれませんけれども。そういう意味で笑われるのなら、ひとっつも問題じゃない。そんな事で例えば神様の顔を汚すという事では決してない。
いや寧ろです。例えば私の修行中時分はもうそれこそ、後光が射すごとあったと。私は何人の人からでも聞きました。一生懸命の修行の姿というものは、そんなに美しいものです。けれどもね、信心させて頂いておる者が、信心をしない者でも言うたり、思うたり、したり、しない事をです。やっておるなら、これは言わば許されません。そういうところを指摘します。例えば商売をしておると致しましょうか。私の所の商売なんかそうだったと思うです。只お願いをして商売繁盛のおかげを頂きたい、という事だけ。成程神様には、御用ばどんどん出来よるかもしれん。余分に儲かったつだけお供えするとじゃから、楽な事、言うならば、それで御用は出来とるけんでよかと、自分は割り切っておった。
ところが信心のない人が見たら、大坪さんの所は他よりも、一円高か、大坪さん所は他の品物よりも悪か、といったような評判をするようになったら、これは許されないという事です。そういう事なんです。私が今日皆さんに分かって頂きたいのは、障子が破れておるという事。教祖の神様は十銭のものでも八銭で売れとおっしゃるのに、売り場買い場を大事にせろとおっしゃるのに、売り場の方では、誤魔化し、仕入れの方の買い場の方では、もう無理を言う。そういう行き方ではね、いけない。仕入れからだけの方だって、またお得意さんからだって、あちらはやっぱ信心しなさるけん違うと、言われるほどしのものが私は、欲しい。それが、言うなら、障子がきれいに張ってあるようなものだというのです。
これは商売だけの事ではありません。普通の、いわゆる日常生活の中にです。第一思い方が間違うとる。考え方が違うとる。それで難儀をしておると言うならです。それはおかしな事ですから、改めていかなければいけません。信心のない人よりも欲が深い。信心のない人よりも、言うなら、まあ根性が悪い、親切がない。それとは反対に今度は、障子がいつもきれーいに、張り替えた後のように、いつもきれーいにしとる、というものほど、感じのいいものはないです。
私はこの障子が破れておるという事は大嫌いですから、もう破れたらすぐそこを、張らせる習慣をつけとりますから、ここでは、案外、障子は破れます、けれどもすぐ張り替える。今日私は取り分け、その障子のこう破れておるというものはです。それは見苦しか、張りやよかとこにとこう思うのです。だから、障子という事を、信心させて頂いておる者とこう、見たんです。だから障子が破れとるのがすぐ目立つように、信心させて頂く者が、ちょっと、信心でない事を、したり言うたりすると、もう本当に、それは目立つのです。だからそういう事が、あってはならないという所に修行の心を置かなければいけません。
これは一生が修行じゃとおっしゃるが、一生そこには、心がけたそうした修行が必要です。本当に心がけなければいけんのです。私はつい最近の事ですけれども、着物をいつも高橋さんがもうおかしのごときれーいにたたんで、籠の中に入れて下さいます。もう高橋さんの御用のようにして下さる。それを応接台の下に入れてあります。それをひっぱり出してから、着る訳です。ひっぱり出して着るまでは、よいけれども、こう出て来とるもんでポンと足で蹴って籠を中に入れる訳です。
けれどもその蹴るたんびにですね。足の先でものを蹴るという事。例えば御ものとか何とかと、御の字をつけるものをですね。足でポンと蹴るのは、それは手に何か持っとったり何かして、するような場合であってもです。障子なんかでも足でポーンと蹴る、見苦しいでしょう。しかも御の字をつけるほどしのものを蹴る。これはいけないな、座る時に座布団がちょこっとちごうどると足の先でポンとこう蹴ってから真っ直ぐする。そういう事を以前は平気でしとりましたけれども。今頃ね、それをしまいと心がけるようになったんです。だから、例えば私が座布団に座る時に、私はよがんどるのに座る事は大嫌いですから、それを必ず真っ直ぐせにゃ気のすまん。
祝詞座でもそうです。こうして、お届け帳持ってますから、足で、よどうどるなら、真っ直ぐ‥‥、けれどもやっぱりいけませんです。だからそこに置いてでも、片一方の手でして、でもやはりちょっとこう手でするというように。例えばそれをそんなら、見た眼がですたいね。あれは、親先生は足であげなこつしょんなさる、と言うたら、もうそれは破れておるのと同じ事じゃないかと思うんです。親先生はあげなこつしてから、と言うなら、もうそれは、言うなら、破れておるのと同じですから、それに気がつかせて頂いたら、もう決して、足では、ものを扱うような事はしない、とこう決める。ですから今迄やってきとる事ですから、ついついそうしょうとする時に、それをちょっと手でするという事がです。やはり修行なのです。これはもう仔細な事ですけれども、そうなんです。
日常生活にはそのようにしてです。改めて、信心しておってこげなこつでよかじゃろうかと、自分で思うところがあるならばです。もう早速改めるべきだと思うです。ですから、それを修行という言葉で言うと、ちっと大げさですけれども、やはりそうです。もう日常生活の中に、ちょっとした、そういう心がけです。信心させて頂く者の。だからそれは修行と思うて、そう心がけさせて頂くという事なんです。
私の方の子供達が小学校の時分に、どの子だったか知らんけれども、何人かはそれを家庭訪問の時に、ちょっともうお宅のお子さんはもう頭が悪いけん出来んとか、そういう事ばっかり苦情が多いのですけれども。これだけは感心です。お宅のお子さんは必ず下駄を揃えて上んなさるという事を、何人かの子供の事を聞きました。だから教会の息子さんだから、やっぱ信心しござるから、やっぱそういう意味での躾はよかじゃろうと、こうそんなら学校の先生も思いなさるだろうと思う。
それは例えばどんなに仔細な、形の上に表れておる事柄でもです信心しよって、そげなこつでよかだろうか、というような、ろくそな事をしてです。人に目立つような事をする事は、私は神様の顔にかかわる、と思うです。金光様の信心しよってあげな、いわゆる障子が、それは破れておるようなものなんですから、本当にすぐ、張り替えられるものならば、すぐ張り替えよう。今日私はね、一生が修行じゃとおっしゃる。だから一生そういうような、例えば仔細な問題にでも、信心で取り組まして頂くという事。いわゆる信心する者は何事にも真心になれよ、と。
そうしてそれが、自分のものになっていって、段々完璧を目指していくという、行き方をです。修行と頂かなければならん。修行というのは、いつも苦労が、この世におる間は苦労がつきものだ、と。だからそれは仕方がないといったような事であっては、決してならん。同じ苦労が、永年続いてはならないという事です。それはおかげにしてゆかなければならん。そしてその次のもっと高度なもっとましな、修行に取り組まして頂く。それは学者が眼鏡をかけても、本を読むようなものであろうぞいと言われるようにです。学問の世界がより広がってくる。学徳が身についてくる事を楽しみに、言うならば年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであるという、ようにです。信心させて頂く者も、おかげの世界がいよいよ広がっていく。
視野がいよいよ広がってくる事が、有難いのであり、それが楽しいのであり、だから修行の手は緩められない、というのですけれども。今日は取り分け特にです。言うならば今私が申しました。もう足でものを扱うような。そら足で扱うた時が大変便利のよか時があるです。けれども、そんなら、それは便利がよかろうけれども、これはです。もう決して、足で蹴ったり、足で直したりする事はせんと、いう事を、修行にしたらです。例えば見た眼に素晴らしい事だと思うのです。
それは確かに見苦しいですねえ。女の子なんかがポンと足でものを、直したりしておるのは本当に見苦しいです。それをちょっと手を使わせてもらうという、たったその位な事。そういうような事は、私共の身辺にはいくらもある。同時にです、商売の事で申しましたけれども。信心させて頂いておられるから、あそこの品物は中々、品質がいい、そして安い。そしてその上親切、この位の事がです、その商店の信心させて頂いておる者の、商店のモットーとしてです。実行出来る位なおかげを頂きたい。
信心しござるばってん、あそこんとは高い、品物が悪い、そして不親切なんて言うたら、もういよいよ、障子が破れておるようなものですから、金光様の信心ちゃあげなもんじゃろうという事になってくる。そういうところをです。私は今日は、一生が修行じゃとおっしゃる。いつも心がけとかないと、人間はやはり欲がありますから、十銭で売るものは十一銭で売りたいという気持ちがいつもありますから、それを自分の身についてしまう迄、十銭のものは八銭で売らして頂くというような行き方をです、身につけていく事の修行を、一生続けさせてもらうというような、おかげを頂きたい。今日は、そういうような意味で頂いて頂きたい。
今日、障子のね、破れておるのを頂いて、成程障子の破れとるのはこげんも目立つもんだなと、思わせて頂いたら、それがきれーいに張り替えてしまってあるところを次に頂いた。またこれはいいなあと思うた。そしたら今日この三十七節を頂きましたから。だから障子という事は、紙で張ってあるから、神に通じるのでしょう。信心という事でしょう。私共が建てておるところの信心の障子というものを、です。
いつも破れてはいないか、心がけさせてもろうて、破れたと思うたら、すぐ張らせて頂くという行き方をしないとです。いわゆる見苦しい。それが信心がない人ならばです。目立ちもしませんけれども、障子だから目立つのです。ですから障子だから目立つのですから、私共はその障子のつもりで、いつもおらなければいけない。そういうささやかな事ですけれども。そういう修行をです、させて頂かなければ、あの人達が信心はしよってけれどもと言われるような事が、自分の周囲にあるような事ではおかげにならんと思うのです。どうぞ。